家庭教師は、学習障害を救えるか?!
--「奇跡」の起こし方--
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「学習障害(LD)かも知れない」
「うちの子は学習障害(LD)ではないか」。そんな不安がふと心をよぎった経験のある親は、意外と多いのではないだろうか。あるいは、学習障害ではなくとも、何らかの発達障害か、注意欠陥多動性障害ではないか、と疑うことがあるかも知れない。最近(とは限らないかも知れないが)の子どもは一般に落ち着きがなくて、なかなかじっとしていられないことも多い。だから、わが子がしょっちゅう走り回っていたり、15分も机に座っていられなかったりすると、親はつい「もしかして」と思ってしまう。「学習障害(LD)」「発達障害」という言葉はよく耳にするものの、実態がつかめないので、言葉が独り歩きしていることも背景にあるかも知れない。
「中学受験」と「学習障害(LD)」
そういう事情もあってか、「学習障害」は、家庭教師派遣会社のいい商売のネタになっているようにも見受けられる。今や、家庭教師センターの売りは「中学受験対策」と「学習障害(LD)対策」の二つだと言ってもいいくらいである。けれども、中学受験はともかく、もし学習障害が本当に「障害」であるのならば、いったい家庭教師に何ができるというのだろうか。
「学習障害をもつ生徒への指導経験豊富」
そもそも、「学習障害」などという言葉ができるずっと以前から、家庭教師も、家庭教師派遣業もあった。
推計によれば、学習障害をもつであろう子どもは、1クラスに2、3人はいてもおかしくないくらいである。したがって、家庭教師派遣業として、顧客(生徒)の数もそれなりにあるのだとしたら、その中に学習障害の子どもが一定程度含まれている可能性は十分にあるだろう。いやむしろ、成績不振だからこそ家庭教師を頼むケースが多いことを考慮すれば、その割合は通常の公立学校などよりも高いかも知れないのである。
だから、たいていの家庭教師センターなら、「学習障害をもつ生徒への指導経験豊富」と謳おうと思えば謳えるわけだ。
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「学習障害を治す」
けれども、家庭教師による指導が「学習障害対策」として本当に有効かどうかには、大いに疑問がある。
もちろん、「学習障害と診断されたのに、優秀な家庭教師のおかげで克服できた」というケースはあるだろうし、「学習障害を治す」とまで言っている人もいる。けれども、たとえ家庭教師がどんなに優秀であろうと、生徒がその程度のことで「治る」のだとしたら、それは実は「学習障害ではなかった」ということではないのだろうか。
つまり、はじめの「学習障害という診断」が誤診であったので、本当は「障害」ではなく、単なる「成績不振」に過ぎなかったということだ。
むろん、それはそれで喜ばしいことである。
だが、これが本当の意味での「障害」、つまり「生まれつきの中枢神経(脳)のはたらきの障害」だとすれば、家庭教師がいかに優秀であろうと、またどんなにがんばってみたところで、症状そのものが改善するとは考えにくいのである(注)。
(注・ヘンシュ貴雄『頭のいい子ってなぜなの』(海竜社)には、脳科学に基づいた実際の学習障害の治療例が紹介されている。このような例が報告されていることは、それ自体が大いなる希望と励ましとなるものだ。だが、それと同じような効果を一般の「家庭教師」に期待するとしたら、それは相当な無理があるという気がする。) |
「奇跡の人」
ところで、やや唐突に思われるかも知れないが、ここで思い出すのは、”奇跡の人” ヘレン・ケラーとその家庭教師であったアン・サリヴァン先生のことだ。ふつう日本では、”奇跡の人”とはヘレン・ケラーその人であると思われている。だが、実は、それは、ヘレンに「奇跡」を起こした人、すなわちサリヴァン先生のことである。もしサリヴァン先生がいなかったとしたら、一体、ヘレンはどんな人生を送っていたのだろうか。
盲・聾・唖の三重苦を背負いながらハーヴァード大学を卒業したヘレンは、障害を「克服した」と言ってもいい。だが、その「克服」とは、彼女が障害を免れ得たという意味ではない。いかにサリヴァン先生であろうと、ヘレンの目を見えるようにしたり、耳を聞こえるようにしたりすることはできない。
サリヴァン先生がしたこととは、ヘレンの目や耳の障害をどうにかしようとすることではない。そうではなくて、彼女に「新たな目と耳」を与えることであった。
今、ヘレン・ケラーの自伝を読んでみると、まるで情景がありありと目に浮かぶように描かれている。これが目も耳も不自由な人の書いたものだとは、にわかには信じられない。それこそが、サリヴァン先生が彼女に与えたものなのではないだろうか。
次は「奇跡は、いかに起こるか」
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